本は成長と癒やしを与えてくれる

年間150冊の本を読む読書好きのブログ

海からの贈りもの

 

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【著者】
✏アン・モロウ・リンドバーグ



 (落合恵子)訳
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【キッカケ/目的】
📚図書館で見かけた【「海からの贈りもの」が教えてくれたこと】を読んでみて原作を読んで自分はどのように内容を受け止め、何が得られるのか知りたくて読んでみた。

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【内容】
📖
本文より

「わたしは、女が誰しも新しい生活を求めたり、思案するための自分ひとりの空間を欲しがっているわけではなく、多くの女は、自分の現在の暮らしに満足しているのだと思っていた」

「わたしは気がついた。わたしの考えは、決して私だけのものではない、ということに。」

「本質的にわたしと同じように人生の問題を抱えていて、その解決の方法について共に考え、共に話をしたがっていた。
時計のようにきわめて正確に淡々と暮らしをしているように見える人でも、もっと創造
的な、休止のあるリズムを求めていた。」

「気を散らさなければやっていけない生活の中で、どうすれば自分自身でいること、自分であることを失わずにいられるかということ、にある。車輪に圧力がかかり、自分という軸が折れそうになっても、どうすれば、それに負けずにいられるか、ということである。
それには、どうしたらいいのか。こうすればいい、という答えはすぐに手に入るもので
はない。完全な答えもない。」

「ただ、幾つのかの手がかり、そう、海辺で拾った貝のような手がかりはある。】

 

著書と同じ悩みを持った人達はたくさんいる。その人達、特に女性にむけて海が与えてくれた宝物である、さまざまな貝の形や特徴から話を展開し解決のヒントを与えてくれている。

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【感想】
📝一人の時間を持つこと、自分と向き合う時間を持つこと、忙しい日常は変わらないかもしれないが、一人の時間をもつ方法、一人になれる場所に帰れる手段があるだけでも気持ちは軽くなる。ただ一人の時間を確保してもその時間をどう使うかでも変わってしまう。
この本から学んだこと、解決のヒントから自分の時間の過ごし方を見直そう。

そして先ずは「どれだけ多くのもので、というのではなく、どれだけ少ないものでやっていけるか」を実践してみよう。
増やすことには限界がないし一時的にしか満たされない。減らすには限界があるし、不自由さがあっても工夫次第で乗り越えられるし、それが楽しくもあるかもしれない。

シンプルな生活を心がける。

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【学び/印象的な言葉】

💡「海は、もの欲しげな相手や貪欲なもの、焦っているものには何も与えてはくれない。砂を掘り返して宝を探すというやりかたは、せっかちであり、欲張りであり、さらには、自然への配慮のない行為である。

海は柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。柔軟性と率直さ。

わたしたちは、海辺の砂浜と同じように空っぽになって、そこに横たわっていればいいのだ。海からの贈りものを待ちながら。」

 

💡「どれだけ多くのもので、というのではなく、どれだけ少ないものでやっていけるか。」

 

💡「人間が、いかに少しのものでも生きていかれるか、を。そして、簡素な暮らしが、いかに素晴らしい精神的な自由と平穏を与えてくれるか、を。

わたしは幾分皮肉な思いで、考える。現代のアメリカに生きるわたしたちは、ほかのど
の国の人たちよりも、簡素な生活か複雑な生活か、いずれかを選ぶ自由とぜいたくが保障されている。そしてわたしたちの大部分は簡素な暮らしを選ぶことができるのに、あえて反対の暮らしを選んでいるのである。

 

💡「わたしはいま、ひとつの貝殻の外側を、あるいはわたしの生活の殻を見つめているのだ。完全な答えを、外側に求めるのは不可能だ。外側はひとつの方法、光りに辿り着くための、ひとつの道でしかない。ほんとうの答え、真実は、いつも内側に隠されているのだから。
しかし外側は、内側の答えを探りだす手がかりとして役立つものだ。」

 

💡「いつでも空想にふけることができた昔のほうが、まだしも創造的だった。空想は、自分自身の中の何かが必要だし、自分の内的な生活を豊かにしてくれるものだ。しかしいま、わたしたちは孤独の空間に自分の夢の花を咲かせる代わりに、実は聞いてもいない絶え間ない音楽やおしゃべりで、孤独の時を埋めているだけだ。それらは、ただそこに在り、空しさを満たしているだけなのに。

 

💡「わたしたちはいまこそ、「ひとりでいる」ということを、もう一度はじめから学びなおさなくてはならない。
それは今日では決してたやすいレッスンではない。家族や友人から離れて、一週間でも
一日でも、一時間でもひとりでいるということは。
わたしの場合、それがどんなに短い別れでも、別れの時はつらく、苦痛に満ちたものに
なる。手足が切断されたようにも思え、わたしにとってかけがえのないものが、切り取られるような気さえする。しかし別れの時を越えてしまえば、ひとりの時間がいかにかけがえのないものかに気づくのだ。切り離されてできた空虚な部分に、以前よりも新鮮で充実した生が戻ってくる。ひとでのように、別の新しい腕がはえてくるのだ。こうして、失ったものは回復し、ほかの人たちによって自分の一部を切り取られていた時よりも、はるかに健康な自分になっていることに気づくのだ。

 

💡「自分が自分の核としっかりと繋がっている時だけ、わたしたちは他者とも繋がることができる。」

 

💡「ひとりでいる時間は、一生のうちでもきわめて重要な時間である。ある種の原動力は、わたしたちがひとりでいる時にだけ湧いてくる。芸術家は創造するために、作家は考えを深めるために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために、ひとりにならなければならないことを知っている。
そして女は、自分の本質をふたたび見つけ出すために、ひとりになる必要がある。いろ
いろな人間関係の欠くことのできない核になるような固い結び目は、そうやって見いだした自分というものであるのだから。」

 

💡「技術的な意味では、わたしたちはこの数十年のあいだにたくさんのものを獲得したが、精神的にはむしろ知らない内に失ったもののほうが多いのではないだろうか。」

 

💡「たくさんの機械のおかげで、わたしたちは、時間と労力を省くことができるようになった、それは事実なのだ。しかしそれで得た余裕をもて余し、目的のない役割を買って出たり、一見便利なようでかえって暮らしを煩わしくする器具を集めたりすること。使いこなせないものを手に入れること。つまり、空しさを気分転換で埋めようとし
て、時間や労力を浪費することは、何の解決にもならない。」

 

💡「蜻蛉(かげろう)の一日や、ある種の蛾の一夜は、一生のうち、きわめて短いあいだしか続かない。
しかしだからといって、その一日、一夜を無意味だとする理由にはならない意味があるかどうかは、時間や永続性とは関係がない。それはもっと違う平面で、違う尺度によって判断すべきである。
それは、いま、この時の、この空間での、いまという瞬間に繋がるものであり、「現在
在るものは、この時、この場所でのこの瞬間にしか存在しない」のである。

 

💡「中年という時代は、野心の貝や、各種の物質的な蓄積や所有欲の貝、エゴの良などを、捨てるステージなのかもしれない。
この年代に達してはじめてわたしたちは、海辺のシンプルな生活と同じように、虚栄心
や間違った野心、仮面や鎧を捨てることができるだろう。わたしたちが鎧をつけていたのは、競争社会で、わたしたちを守るためだった。競争自体が不要になれば、鎧もまた必要ではなくなるはずだ。
中年はだから、ほんとうの意味で自分自身であることができる年代なのかもしれない。
なんと解放された気分だろう」

 

 

💡「光りにはっきりと切り取られた昼間が去った後、無限に広がる夜の闇そのものが、たがいをたがいに向かって解き放ってくれるからだろう。あるいは、無限の空間と闇がわたしたちを圧倒し、縮み上がらせるから、人間の放つ小さな火花が恋しくなるのかもしれない。
話し合うこと……。しかし、それはあまりに長くなってはならない。なぜなら、あまり
話がはずむと、それがブラックコーヒーのようにわたしたちを刺激して、なかなか寝つかれなくなってしまうから。」

 

💡「独占すれば安心していられるというわけではなくて、所有欲も、要求も、期待も、そして何かを願うことすら人を安らかにはしない。安定した人間関係は、未練がましく過去に執着することや、未来に脅えたり、期待をすることからは生まれない。それは現在に生き、現在の状態をあるがままに受け入れることからしか生まれない。」

 

💡「たったひとつのつめた貝のほうが、三つあるよりも心に残る。空の月はひとつしか輝いていない。ひとつのひので貝はかけがえのないものだが、六つあると、学生時代の一週間と同じで、それはもう、ひとつの連続でしかない。

💡「一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。蝋燭の光りは、夜の闇に包まれて炎の花を咲かせる。ささやかなものでも、周りに空間があれば、意味を持つようになる。余白の多い東洋画の片隅に、秋草が数本だけ描いてあるのも、その一例である。
コネティカットでのわたしの生活には、この空間があまりにも不足している。そのため
に意味を持たない、つまり、美しくないのだということがわかる。空間には、文字がいっぱい書き込まれ、時間も埋め尽くされている。わたしの手帳には余白はほとんどなく、一日のうちで何もしないでいられる時間は少ない。家には、わたしひとりでいられる空いた部屋もない。仕事や持ちものや、会わなければならない人が多すぎるだけでなく、やり甲斐のある仕事、興味深い人、貴重な持ちものも多すぎる。退屈なことだけではなく、重要なこともまた、わたしたちの生活の邪魔をする。ひとつかふたつの貝殻こそ意味があるのに、わたしたちは宝もの……、貝殻を持ちすぎているのだ。

 

💡「立ち止まって考えてみると、現代生活において、もっとも損害を受けているのは、これらの点、つまり、自分がいまいる「場所」と、「いま」という時と、そして「個人」と、その人間の繋がりではないだろうか。
未来への競走をしている内に、現在=「いま」は見すごされ、自分から遠く離れた「ど
こか」のために、自分がいる「ここ」は見すごされ、個人は多数派の悪によって凌駕されている。
アメリカには、現代の世界の中でも、もっとも輝かしい「現在」という意識が残されて
いるにもかかわらず、未来に対して貪欲なあまり、現在を味わう余裕もない。


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